がん患者サロンの役割
(寒川乳がん患者サロンハートプレイス 天野はるみさん)
市民講座でお話ししていただいた内容をご紹介します
☆がんサロンの必要性
☆ピアサポートの重要性
☆コクア会の仲間との出会いと奇跡
◆ がんサロンの必要性 ◆
寒川町の乳がん患者サロン「ハートプレイス」代表の天野と申します。
私は8年前に乳がんを罹患しまして、手術、治療を行ってきました。
そして、その治療中に、今度は同居している母の食道がんが見つかりました。
手術ができないほどに、母の食道にできていたがんは大きかったので、その時できる治療として、放射線の治療に母の手をひいて毎日、自分が通っている大学病院を往復しました。
日本人の2人に1人はがんになる時代と言われています。私のようにがんを抱えながら、更に重いがんを患わっている家族の看病をする。そんなことも当たり前のようになってきている時代です。
母を看取り、ふいに自分の病であるがんを意識するようになりました。
私の胸にできたがんは、女性ホルモンに関与しているタイプのがんでしたので、ホルモン療法という治療を5年間行いました。
再発のリスクの高い患者さんは、このホルモン療法を10年続けます。乳がんは治療にとても時間がかかります。そしてその長い治療中、安定期に入った患者さんでも頭のどこかでいつも再発するのではないか、転移するのではないかという不安を抱えています。
それを5年、10年と、たった一人で抱えていくことになります。安定期の患者さんをそういった意味でケアしていくことが今の医療では追いついていません。
私は近所に住む5年先輩の乳がんサバイバーの女性とうちでお茶を飲みながら、術後の傷の痛みや脇の下のリンパ節をとった後の生活の不具合などを、あれこれ語り合う中である思いが生まれました。
「こういう語り合いの場が必要なんじゃないか」
病院の中ではなく、地域の中に患者さん同士またはご家族が語り合える場。不安や心配な気持ちを分かち合える場が必要だと思いました。
3年前のちょうど2月に寒川町にハートプレイスという乳がん患者サロンを立ち上げました。当時、湘南地区には院外でやっている患者会、サロンはひとつもありませんでした。
ハートプレイスというこの名前は当て字ですが、「心の居場所」という意味合いでつけました。サロンを開催するたびに参加してくださる方から大切な学びや気づき、そして元気をいただき、丸3年が経ちました。現在、会員の方は寒川町に限らず、厚木市、海老名市、相模原市、町田市、そして足柄在住の方も、娘さんが手術をしたばかりのお母様を連れて来てくださったこともありました。
◆ ピアサポートの重要性 ◆
ピアサポートという言葉をご存知でしょうか?今日はぜひ皆さんにこの「ピアサポート」という言葉を覚えていっていただきたいと思います。
ピアサポートのピアは仲間、同じような立場の人という意味です。
サポートは支え合う。仲間、同じような立場の人で支え合うということです。
がんサロンはまさにピアサポートの場、仲間同士で支え合う場になっています。
患者同士だから分かち合える思いがあり、自分だけで抱えていた悩みが話してみると、ふと気持ちが軽くなったことに気が付きます。
がんという病の共通性の中で、ほっと安心し、自分ひとりじゃないんだ、ここには仲間がいると感じていただける。
マザー・テレサは「世界で一番恐ろしい病気は孤独です」
そう言いました。孤独ほど辛いものはないということでしょうか。
がん患者さんは、この孤独の中で暮らしています。
家の中でも家族には気兼ねがあり、本当の気持ちを言えないでいる。
職場に行っても自分ひとりががん患者であり、電車に乗っていても、スーパーに買い物に行っても、自分だけががん患者のように思えてしまいます。
この孤独感は消えることがありません。
治療中、私が唯一、心安らぐ場所がありました。そこは放射線の外来の待合室でした。右を見ても左を見ても、どっちを向いてもがん患者さんだらけなんですよね。当たり前のことですが、それがやけに嬉しくて。「あなたもがんですか。私もなんですよ。あなたは肺ですか。そちらの方は前立腺」そんなふうに言葉には出しませんでしたけれど、どこかほっとする居心地の良さがありました。
自分ひとりじゃないのだ。ここにはがんを抱えて生きている方がこんなに沢山いる。
その事が私にとって孤独感を感じなくてすむ空間になっていたのだと思います。
地域の中でその役割を果たすのが『がんサロン』だと思っています。
自分だけじゃないと思える場所。誰か一人にでも自分の胸の内を話せる場所。そこががんサロンです。
◆ 会の仲間との出会いと奇跡 ◆
私は茅ヶ崎のコクア会の会員にもなっていますが、そのコクア会で知りあった50代の女性がいました。
その方は茅ヶ崎出身のあの有名なスター桑田佳祐さん、サザンオールスターズの熱烈なファンでした。
オストメイトの患者さんで、ご自身の人工肛門に「モモちゃん」という名前をつけて、人の集まりに出る前にはよく「モモちゃん、今からカラオケだから、終わるまでおとなしくしていてね」などと語りかけていらっしゃいました。
コクア会がオープンしてすぐに参加してくださった方で、サロンの語り合いの中で「私は抗がん剤の治療をやめました。あとは自然に任せます」そう宣言された方でした。
親しみやすくて、誰でも声をかける、サロンの場を明るく和ませてくれる方でした。
私とその方はサザンファン同士ということで、すぐに意気投合しまして、サロンのあとにお茶をしに行ったり、食事をしたりと、楽しいお付き合いをさせていただきました。
昨年の春ごろから、ご病状が悪くなりまして、入院されました。
点滴棒につかまりながら、10メートル歩くのがやっとという状態でした。
私たちはある計画を立てていました。
東京ドームのサザンのライブに行く。チケットをとって、おそろいのライブTシャツを着て、5月26日に東京ドームに行く計画でした。
病院に面会に行ったとき、「どうしても私をエレベーターまで見送る」と、点滴棒につかまって、ゆっくり歩いて、そしてエレベーターの前でこうおっしゃったんです。
「ドームに行くことが今の私の生きる希望なの」
私は「絶対に一緒に行けます。そのためのあらゆる準備はできています。だから大丈夫」そうお伝えして帰ってきました。
5月26日当日、入院先の病院までその方をお迎えにうかがって、サザンファン8人で1台の車に乗り込み、ドームに向かいました。
車の中でも辛い症状が続き、込み上げてくる唾液を吐き出し吐き出し目は閉じままで・・・・
今でもその時の様子を思い出しますが、水道橋の駅にさしかかった時、大勢のサザンファンが思い思いのライブTシャツを着て、ぞろぞろ歩く姿が見えました。その光景を見た瞬間でした。その方の目が生き返ったように輝いて、「わあ、いるいる!」と声を上げたんです。
はしゃいで話すその様子は、末期がんを患わっている病人ではなくて、1人の熱烈なサザンファンでした。車から降りて、目の前にドームのゲートが見えだしたとき、私が車いすの後ろから抱きしめると、その方の目から涙があふれて「来られるとは思わなかった…夢みたい…」そう言って涙をぽろぽろこぼされました。
車いす用の出入り口から私たちは会場入りしました。事前に車イス席を確保していましたが、当日行ってみると、その方の当てたチケットがアリーナの前から7列目という席だったんです。私たちはうしろの車いす席をキャンセルして、前から7列目という夢のような席に座る事になりました。お体が少しでも痛くないように、クッションをお尻や背中に入れて、ライブが始まりました。衰弱して立っていることもままならないその方が、私より先に隣で立ち上がって、ステージに向かってこぶしを振り上げているんです。この日のライブを見るために今ここに私は生きているんだというように、肩で息をしながら、倒れこむように座っても、それでもまた立ち上がるのです。棒のように細くなった腕でこぶしをつくって、応援なさっていました。
最後のアンコール曲の時には、両側からお体を支えていないと立っていられない状態でしたが、それでも立ちたいという思いに私たちは全力でお体を支えました。
生きる希望を持つということがどんなに大切かを私はその方から教えていただいたような気がします。
ライブに行く半年ほど前に、その方に「サザンの曲の中で何が一番お好きですか?」と聞いたことがありました。
その方は「う~ん…」と考えて、「やっぱり真夏の果実かな…」そう答えてくださいました。
その日のライブの20曲目が、この「真夏の果実」でした。
私たちはステージにとても近い席でしたが、真正面ではなく、右寄りの席だったんです。桑田さんがステージを歩き始め、私たちのいる右側に歩いて来てくれたんです。
そしてその方のちょうど真正面で足を止めて、そこで真夏の果実を唄ってくれたのです。すぐ目の前で大好きな桑田さんが真夏の果実を唄ってくれている。夢じゃない。
ライブから25日目に、その方は旅立たれました。
亡くなる6日前、茅ヶ崎でコクア会のがんサロンがありました。
入院先のベッドの上で起き上がって、「私、コクア会に行きたいの」そうおっしゃいました。
コクア会に行けば、自分の苦しみを分かってくれる仲間がいる。
自分の喜びを一緒に喜んでくれる仲間がいる。皆に会いたい。
そう思ってくださっていたのかもしれません。
がんサロンは、患者さんやご家族にとって、心休まる場所、何よりの緩和ケアになっていると私は思っています。
何もなかったここ湘南地区に、今は寒川町に「ハートプレイス」が、茅ヶ崎には「コクア会」が、そして昨年6月には藤沢本町に「ちゃのま」というがん種を問わないサロンがオープンしました。
3つのサロンが、がんと共に生きる力を得る場所になるように、これからもサロンを続けていきたいと思っています。